国立民族学博物館。通称みんぱくは、相変わらず自分の見えていなかった物事が見える、あるいは思い出す場所だと思う。個人的には大阪で一番誇れる場所だ。
自分も他人との違いに目を向けがちだけど、民族や人類の視点で考えると、言葉や宗教、肌の色など表面的なことではなく、例えば人間が暗闇を怖れたところから生じてきた怪異や神が在るように、人間の根本的な部分でおおよそ同じといえる面が存在するところから、関係性をスタートしませんか、と思い直す場所だと感じる。
もちろん、これまでの歴史や遺伝を引き継いだ固定観念が各人のに中にさまざまあるわけで、おおよそでも同じ所に立つのは容易ではない。
世界中の人間の営みを集めて展示してあると、地球上の環境などによってさまざまな生活が存続してきた形が見える。
その中には、例えば似たようなアニミズム(生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方)が存在していることがうかがいしれたり、そうした霊魂や神を顕現させたお祭りが世界各地にあるのがわかる。
それぞれの祭りの形は、似ていたり、派生していたり、あるいは独特な形になっているかもしれないけれど、祭りとして生活と密接に関係して人間が生きている。
私は地球上で祭りのない社会や民族が存在しないように思っているけれど、そのように人類ならおおよそ同じような営みを繰り返していると思うと、それぞれが大切にしていることに泥を塗らないことは、もっともっと当たり前になって欲しい。
みんぱくに行くと、人類の困りごと、貧困や差別、戦争や虐殺が解消されていないことが見える。現代社会において、人間同士の関係性が希薄化しゆくように見えるのにも目が向く。
刺激が強く、即席的な楽しさにのめり込んだりすること自体は悪くないと思いたいけれど、人生の全てがインスタントな楽しさに占有されつつあるのかもしれないと思うと、少し怖い。
他人からスマートに見られたい、数字のアルゴリズムで他人を出し抜きたいという生き方が、拡大し続けているように感じられることには、ひんやりした気持ちになる。
即席的あるいは刹那的な楽しさの中にも、地域や民族として受け継がれてきたことは、少なからず入っている(例えば色に対する感覚や、最近だと中国発のゲームは詩が読まれる場面が多いなど)けれど、古くからある慣習がもたらす弊害を大きく見積もって全体を切り捨てたりすることをニュースタンダードのように呼び、因習を捨てて見栄えを整えた何かに置き換えることが、どういうことを意味しているのか考える一端になる場所だとも思う。
もちろん受け入れざるを得ない地球環境などの変化によって発生する新しい習慣はあると思うし、考え方を更新していく場面もあると思う。
それでも、AかBかという選択肢を提示しているようでいて二元論で押し切ったり、既存の価値観や関係性を分断する動きに見えることも最近は多い。
そうした場面で、新しい考えについて行けない人は?AでもBでもない人は?どうするの?ということも、忘れないでおきたい。
みんぱくは今年で50周年で、今は「日本の仮面」という特別展を開催している。特別展の中で1点だけ展示されていた鴉(からす)天狗の青い仮面がとてもカッコ良かった。他には、獅子舞の面になぜ太い眉毛があるのかが気になったり。
自分がいつまでみんぱくの展示を見に行けるか分からないけれど、みんぱくの100周年の企画展も見たいと思う。
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