Drifting at nightとNighthawks

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歳を取って夜更かしは得意ではなくなってきました。翌日の疲れが顕著になってきています。


しかし夜はひっそりとした穏やかさがあり、じんわりしみる独りの時間であり、そして今もキラキラしています。

今回は、ぼんやりとした形で分けて続けている写真のシリーズ「Drifting at night」と「Nighthawks」のについて書き出してみます。

夜について

night timeの撮影として「Drifting at night」と「Nighthawks」をシリーズにしていますが、時間として、あるいは空の明るさとして夜を明確に定義して撮っている訳ではなかったりします。


早朝や夕暮れの時間帯も含めて夜として撮影しているのは、空の色を出した写真を撮りたいからです。完全に空が黒くなってしまうと、city scapeの魅力が十分でないこともあります。

Drifting at night.

「人間社会を漂流している私が撮っている」という意味で考えていて、にぎやかな夜の写真になっていないことを、一番大切にしているつもりです。


人が主役になっていない写真につけていることが多いですが、必ずしもそうとは限りません。


画面内の色の数も多くならないようにしていますが、時々外していると思いつつ「一般的な夜景」だと思いつつポストしていることもあります。

Nighthawks

アメリカの画家、エドワード・ホッパーが描いた「Nighthawks」に由来するシリーズで、現代の日本にエドワード・ホッパーが居て写真を撮るとしたら、どのような作品になるかを模索しています。


Nighthawkは、夜更かしする人と訳されます。Nightowlも同様の意味を持つ単語のようです。

そういうわけで、Nighthawksのシリーズには、city scapeに人が入っていることを前提にしています。

しかし通行する人を撮影して展示したり、ネットにアップすることは、日本では気を遣うところで、人が影になって顔や衣服などが分からないようにすることなどが求められているように考えています。

もうすこし飛躍した考えとして、撮影者である私と写真を鑑賞する人がNighthawksであると位置づけると、写真に人が写っていなくてもNighthawksとしていることもあります。

またハードルが上がるのですが、ガラス越しなどで撮影した夜の写真もNighthawksのシリーズに加えています。ガラスを見えない壁の分断と捉えています。

余談

多くの人工物には美しく見せたい人の意図が宿っています。なので、人工物を単体でそのまま美しく撮る、コピーするのはできれば避けたいと考えています。

一方で、夜は人工照明によって照らされた被写体を探すことが前提で、夜間のスナップ撮影は人工物を作った作者の意図をただコピーしがちです。

最近は作者の意図しないところに生まれているように感じられる、美しさなり醜さを写し撮りたいと考えています。(今の自分の写真で出来ているとは言えませんが)

そうなると、看板や建物を単体で撮るよりは、街並みや人の営みがあることを写し撮ることが、自分にとって好ましい写真であると考えることもできます。

それが難しいのであれば、自然の生み出した美しさに目を向ける方が健康的なように思ったりもします。(私の写真の被写体で自然と人工物の振り幅があるのはこのためでしょう)

おわりに

太陽は地球を照らしてくれますが、地上の全てを照らしているわけでもありません。

人間社会でも光の恩恵を受けている人は一部だと考えています。その人たちですら、100%の幸せな生活を送れている訳でもないでしょう。

自分自身や人間社会の影や闇の部分を考えるとき、光が当たっていないところにある生き方や時間の過ごし方、遊び方はどのようなものなのか、もっと見たり記録しておきたいのでしょう。

一方で、何事においても影や闇にとどまり続けるのは健康的ではないですし、光と影の中を行き来する振れ幅の中で「生きる」を大切にしたいと思うようになっています。そこには、まだ自分が見知らぬ何かを探す遠くへと続く道があるのかもしれません。

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