信頼と旗印

日記

はじめに

何か他人と力を合わせて物事を進めたいとき、ある程度人柄を知っている、あるいは付き合いが長いと思ってもらえる知り合いなら、それなりに協力してもらえることもあるとは思えるようになってきました。

そうした1次的知り合いなら個人の信頼実績で協力できますが、2次的というか知り合いの知り合いに簡単に協力できるか、というとちょっと難しいなと思うことがありました。

旗振りとして

相互に協力するのではなく、物事の中心人物が協力者として妥当であるか審査しますと宣言されると、こちらも少しどころではなく身構えます。選民や優生の印象が垣間見えるからです。

そうなったときに中心人物の人となりや、どういう考えを持っている人間なのかが分からないと、支援する側はその人物と関わって大丈夫なのか不安な気持ちをどう解消していいかわかりません。

そういうときに、中心人物の掲げる旗印となる理念なり理想が、手早く読めるWebサイト、SNSなどがあると理解が早いのですが、見当たらない場合はご縁がなかったと思うようにもなりました。

自分はできてる?

翻って、今の自分が旗を立てられているのか、それは分かりやすい旗印にできているか、今一度確認する必要を感じる機会にもなりました。今の自分が何かの旗振りをする予定はありませんが。

去年も一昨年も、今後のことなど考える時間を作っていますが、考えたときはこれかなと思えても、時間が経つとその考えに対する印象や、環境の変化によって、手を加える必要があったり、場合によっては根本的に考え直す必要が出てきます。

自分の日常に最低でも2割くらいの余白を作って、コツコツ自分の旗印を今どうするのか考えておくことは、他人の力も借りて何かやってみたいことが出てきたときにサッと動きだせるし、自分自身も進む方向が明瞭な一本道でなくても、所々分岐したり飛躍するとしても、方向性を見出しやすいだろうなと思いました。

伝え方

自分の目の前にあらわれた協力者を直感的に判断しますという姿勢で、中心人物の価値観なり方向性が明文化されていないと、まったくの他人から信頼を得ることは難しいなと思った話ですが、これは言葉を操ることを得意にする人が圧倒的に優位です。世の中の大半は言葉によって定義され、運用されていますし、言語以外の伝達手段あるの?と思う人もいそうです。

一方で、視覚的に訴える方が得意な人は、意味や雰囲気を言葉ほどまでに精確に凝縮させることはできないかもしれませんが、制作できる視覚的作品によって、価値観や方向を伝えることはできると思います。文脈を視覚的に読み取れる人は言語的な理解者より少ないかもしれませんが、自分はそういうことも信じていきたいとも思いました。

おわりに

日本では読み書きができる人間が一般的ではなかった時代、自分の思いを伝えるために石文(いしぶみ)という伝え方があったそうです。自分の思いをあらわす石を相手に渡して、相手に気持ちを伝えていたと聞きました。そういう方法も含めて、言葉で伝える姿勢を考えたいと思いました。

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