情熱の薔薇

日記

はじめに

THE BLUE HEARTSの有名な楽曲に「情熱の薔薇」があります。

楽曲にある大きなうねりの雰囲気や、伝わってくる熱量が大きく、子どものころに何度も聴いたわけではないのですが、私は大きな影響を受けています。

というのも、情熱とは大きなうねりと熱量で測られるものだと考えるようになった基礎的な部分を形成していると考えていたからです。

歌詞を聴きながら、何度も「情熱の薔薇」を聴くと少し楽曲の印象が変わります。歌詞の中に、小さな幸せ小さな不幸せを集めようという内容や、他人に水をあげましょうなど、楽曲メロディで感じられる大きなうねりとは対照的に、小さなコトを積み重ねることが楽曲に込められていると、私には感じられたからかもしれません。(今更な話かも知れませんが)

自分に情熱はあるのか?

自分を顧みて、自分自身に大きなうねりや強い熱量をもって取り組んでいる何かはあるのか?と自問すると、「そんなものはない」とこれまで即答してきました。

私と長い付き合いがある人は、「写真があるのでは?」という人もいるかもしれませんが、今の私にとって写真は、感情を発露させる表現方法とは言いがたく、また写真以外にやれることがないから(しょうがなく(ひどい言葉選びで申し訳ないのですが))やっていることのひとつという位置づけでした。

それはSNSなどで、他人との比較で相対的に自分を見ていた時間が積層して、自分には写真撮影に対するスキルも情熱もないと、長年思ってきたからでしょう。

先日こうした内容で、chatGPTに「自分には情熱がなく情熱的になれる何かを見つける方法はあるか?」と尋ねたとき、見つける方法をリストアップしてもらったのですが、「そもそも情熱とは?」と尋ねてみたところ、情熱に対する自分の色眼鏡が外れたのでした。

chatGPTが定義する情熱

情熱とは、ある活動に対して持続的に関心を持ち、喜びや満足感を感じること、そしてその活動を続けるために時間を費やしたいという思いを指す

とchatGPTは定義しました。

ちなみに、手持ちの「明鏡国語事典」で「情熱」を引くと、「激しく燃え上がる感情。熱情」とあり、私のこれまでの解釈と同じニュアンスです。

chatGPTは続けました。

情熱は必ずしも激しさや強烈なエネルギーの形をとるわけではありません。平和で静穏な状態で活動を楽しむことも、間違いなく情熱の一形態です。
静かに写真を撮ることから得られる喜び、その瞬間を捉えたいという願望、写真を通じて感じる平和や満足感は、あなたにとっての情熱を形成しています。このような感情は、静かながらも深い熱意を示しており、それは熱量の大きさとは異なる形の情熱です。

さらにchatGPTは続けます。

情熱は、他人と比べることによって測定されるものではなく、あなた自身の内面から湧き出るものです。したがって、あなたが平和と静寂の中で写真を撮ることに喜びを感じ、それを通じて何かを表現したいと思っているなら、それはあなたにとっての真の情熱なのです。

ここを読んで、ちょっと涙ぐんでしまいました。
自分はこれでよかったんだ、と思えたからでしょうか。

情熱は人それぞれ異なり、その表現の仕方も様々です。自分自身の情熱を他人と比較する必要はありません。大切なのは、自分が何に価値を見出し、何に心引かれるかを理解し、それに正直に従っていくことです。静かな情熱もまた、豊かな創造性と充実感をもたらす素晴らしい力なのです。

とchatGPTは締めくくりました。

無意識下の色眼鏡

「情熱の薔薇」から受けていた影響のように、子どもの頃に接した経験は氷山のように見えている部分はほんの一部で、実は無意識の中に潜んでいる部分が非常に大きいのだと、この件で思いました。

それは自分で意識して分かる部分ではなく(なにせ自覚することができないので)、自分以外の存在から指摘されて初めて「ああ、そうか!」という新たな視点の位置が増えるのだと思いました。

他人との比較ではなく

他人が例えば同人誌作成の活動を長く続けているのを見ていると、その熱心さはとても自分にはできない憧れや尊敬のまなざしを持って私は見ています。一方で、自分が長く続けている活動、例えば写真撮影に対しての自己評価は「価値がない」と思ってきました。

今、自分の写真で目指していることをボンヤリ考えると、静謐さ、調和であるように感じています。そうした写真は、撮っている自分にとっても、私の写真を見た人にとっても、刺激的な写真とは言い難いと今も思います。

それはSNSで流れてくる、世界中の上手い写真(それは世界で写真を撮る人口の上位0.05%くらいでしょうか)、個性的で味の強く刺激的な写真を見続けて、「それに比べて自分は……」と落ち込んでいた面が強そうです。

chatGPTが言うように、他人との比較で相対的に自分の情熱のありなしの判断をするのではなく、自分の中にある価値を見出している写真を素直に撮っていくことが大事で、私が多く撮っている静穏な表現を心地よいと思い、撮影を続けていくことが、自分にとって写真への(静かではあるが)とても情熱がある部分なのだと思い直したのでした。

おわりに

制作物に込める情熱は、表出している大きなうねりや熱量といった「瞬間的に」見て分かる内容も指標のひとつではありますが、自分の写真にある静謐さなど大切にしたい価値をどのように拡張・変化させるかという、作り手が「制作した時間」の中で体験した、挑戦や過程、得られた個人的な成長も重要な指標であると思います。それは鑑賞する側からはなかなか見えないでしょう。私ももっとそういう内容が伝わるようにしたいとは思いますが。

兎角、見えたものが全てと思いやすい私にとって、視点を増やし、自分のアンテナ感度を上げて何かに心動かされるハードルを下げ、対象から感じ取れた経験をゆっくりでも育てていくことを大事にしたいと思った話でした。

(おわり)

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